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FEATURE
MIYASHITA PARK
特集|宮下公園 #3/3
TEXT+PHOTO :: TAKATOSHI AKUTAGAWA
この記事を書くにあたって、僕はナイキジャパンから直接話を聞くことにした。そこで一番聞きたかったのは、何故ナイキは宮下公園に投資することにしたのか、ということ。
実はこの取材を行った時点で、ナイキはすでに、当初予定していた「宮下NIKEパーク」という名称の使用を中止し、ひらがな表記での「みやしたこうえん」とすることを決めていた。その決定の裏に、活動団体をはじめとする人々の、ナイキへの批判をかわす狙いがあることは、想像に難くなかったけれど、名称にナイキの名が無いとすれば、普通に考えて宣伝効果は激減だ。それでも宮下公園を整備する狙いはどこにあるのか。
実はこの契約、はじめにネーミングライツありきではなく、ナイキが宮下公園の整備に協力するための契約手段として、すでに渋谷公会堂で実績のあったネーミングライツのスキームを、利用しただけということだった。そうした民間企業による公園整備というのは前例がないので、ネーミングライツによる契約を主体とし、それに付随するオプション項目として、公園整備を盛り込むのが狙いだった。

ところがこの名称変更があったがために、ナイキが公園を私物化しようとしているという、誤った認識が広まってしまった。それはナイキにとって本意ではない。そこでナイキの名を冠すことはやめにしたのだが、何しろ契約上はネーミングライツであるから、命名をしないわけにはいかない。そうして結局、ひらがな表記での、「みやしたこうえん」という名称に落ち着いたというわけだ。
ナイキの目的は、あくまで公園を整備することによる、周辺環境の改善が第一義であるということだった。つまり社会貢献活動である。
多くの人々は、今回の問題が明るみになった時、ナイキが公共施設を利益拡大に利用しようとしている、と考えただろう。だからこそ社会的弱者であるホームレスと、それを支援する人々が反対行動を取ったのだ。
しかし最近日本でも話題になった、「マネジメント」という本を書いたピーター・F・ドラッカーによれば、企業の目的は利益の追求ではなく、社会貢献にあるとしている。利益を上げることは、会社を存続するための手段であり、それ自体が目的ではない、という考えだ。

これは欧米社会では広く浸透した考え方で、法人であれ個人であれ、社会的に成功して富を築いたものは、何らかの社会貢献活動をするのが当然とされている。もちろん、その活動は広義での営業活動につながるわけで、会社や個人のステイタスを上げる宣伝活動となることを否定はしないが、それもまだ手段の一つであって、目的ではないということだ。
ナイキのようなアメリカの会社には、そうした欧米企業独特のDNAが流れている。そうしたDNAや社風といったものが、時に典型的な日本企業、あるいは日本人に、理解出来ない場合があったとしても、それは仕方の無いことだろう。今回の件で、反対活動家とナイキジャパンの間には、直接話し合いの機会はもたれなかったが、もし話し合いのテーブルに付くことがあったとしても、お互いの主張を理解することは、恐らく出来なかったのではないかと想像する。

そもそもこの改修事業契約は、公園の所有者である渋谷区が主体となって行われたもの。だから反対活動の矛先が、渋谷区がパートナーとして選んだ先であるナイキに向けられるというのは矛盾した話であり、ナイキが話し合いの場を持とうとしなかったのは、企業として当然の論理を通した結果だと言える。
だがしかし、その論理も彼らには通じないだろう。彼らを突き動かした衝動は、そうした論理的なものではなく、もっとエモーショナルなものだ。資本主義の波に飲まれ、溺れそうになる恐怖。そうした恐怖に立ち向かおうとする人々を、筋違いだと言って切り捨てることが、正しいことだとも僕は思わない。

2011年4月30日。当初の予定から1年遅れて、新生宮下公園は開園した。渋谷区の意向で設置されたという、エレベーターやクライミングウォール。そしてスケボーパークにフットサルコート。そのどれもが新しく、洗練されていて、とても心地の良い空間に生まれ変わっていた。以前の寂れた宮下公園の姿は、そこには無い。人々は長く続くベンチ状の外壁に腰掛け、思い思いの時間を過ごしていた。
恐らくほとんど人が、現在と過去の宮下公園を比べて、昔の方が良かったとは言わないだろう。多くの人にとって有益であるべき、公園の理想の姿の一つが、そこにはあった。もちろんその洗練された空間は、そこに段ボールハウスを建てようとする人にとって、居心地の悪いものかもしれない。しかし彼が段ボールハウスに住まわねばならないのは、公園が美しいせいでもないし、公園を美しくしたナイキのせいでもない。原因は別のところにあるのだ。

公園に限らず、社会は様々な個性をひとまとめにし、時には喜び、時には嘆いて、最善のバランスを探っている。すべての人にとって、満足出来る社会というのは、恐らく存在しないだろう。しかしすべての人が満足することを目指して、社会は発展するべきだと思う。
残念ながら宮下公園も、すべての人を満足させることは出来なかった。反対派の人々の闘争は、法廷に場を移して続けられている。
END.















